どうもこんにちは G です。
今回は他人に偽善と言われてもあなたはやるべき3つの理由についてお話したいと思います。
偽善と言われたときの対処法
それでもやるべき3つの理由
最近、ある人から相談をされたんですね。その人は自分なりに良かれと思って、いろんなことをしてるんだけど、結構身近な人に「あなたがやってることは偽善だよ」みたいなことを言われたらしいんですよ。
自分なりには色々考えてるつもりなんだけど、他人から見たら偽善に見えるんだろうか、私のやってることは偽善なんでしょうかみたいに相談に来られたんです。
でもこれって全く偽善かどうかは重要な話じゃなくて、もし他人に偽善とか言われたとしてもそれは絶対にやるべきなんですよね。
自分自身のやってることが正しいか正しくないかっていうことは、偽善って言われても言われなくても、やはり迷ってしまうときはあると思うんですよ。
だから今回はそういった自分の行動に対する迷いへのアンサーとして、それでもやるべき3つの理由をお話ししようと思います。
自分の目的とは関係ない
まず理由の一つ目として、そもそもその行動をした理由、その良いことをした理由っていうのは、何かやりたかったんですよね。
人を助けたかったとか、目の前の困ってる人を見過ごせなかったとか、こういう風にした方が世の中良くなると思ったとか、そういう自分の目的があったわけですね。
もしかしたら人を助けることで優越感に浸りたかったのかもしれないけれど、やはり人を助けて何かしたかったわけですよ。
そこが本当の目的、その人にとっての大目的だったわけですよ。
そこが目的であれば、当然それを叶えるためにやればいいっていうシンプルな話ですよね。
そこに偽善だよなんて突っ込んでくる人の言うことを聞くことではないですよね。
つまり関係ない人間の感情をなだめるとか、そういったことは全く別の話であって、自分がやろうとしたこととは関係ない、本筋じゃないんですよね。
本筋じゃない全く関係ない他人の意見を聞かなきゃいけないのかって言うと、それは自分がそもそもやろうとした行動とは何の関係もない話ですから、一切聞く必要がないわけです。
そして何よりあんたがやってることは偽善だよなんて言って人の行動を止めたがる人というのは、その人自身もなんかそういったことに対して、自分がやらないっていう思いがあるわけですね。
自分はそういった偽善的なことはやらないと思ってるけれど、他人がやっていると。
だって本当に偽善だからこれはやらなくていいんだって本気で信じている人なら、他人がやっててもどうでもいいはずなんですよ。
だけど他人が善行を積んでるのを見てなんか心がモヤモヤするとか、イライラしてなんか噛み付いてくる人っていうのは、内心では「やった方がいいんじゃないかなー」とか「やっているアイツなんか幸せそうだなぁ」とか、そういう負い目や妬みがあるんですよね。
そういったものがあって本人自身が自己正当化できてないから、相手の足を引っ張ることで、自分と同じところまで引きずり下ろして、自己正当化しようとしているわけですよ。
だからそのやらない人間が自己正当化するためにやってる人間に嫉妬して噛み付いているだけの行為なので、それに対して引っ張られる必要はないわけです。
相手の考え方がおかしいだけ
そして2つ目の理由として、そういう風に他人があんたがやってることは偽善だよとか、そういう他人を悪く評価する人、他人の行動を悪いように受け取る人というのは、結局その人の心の中にそういった悪い考え方があるから、他人の行動も悪く見えるんですよ。
例えば、チャンスがあれば物を盗むっていう気持ちが頭の中にある人が、他人がなんかしているのを見た時に泥棒してんじゃないかって思うわけです。
物を盗むことを全く考えてもない人だったら、他人が何かゴソゴソしてても、あいつ盗もうとしてるなとは思えないわけですよね。
やはり人を騙したことがある、人に嘘をついたことのある奴は、他の人が喋ってるの聞いた時に「こいつウソ言ってんじゃないかな。騙そうとしてんじゃないのかな」っていう風に受け取るわけですよ。
人を騙すなんて考えてもいない人は、他人が自分を騙そうとした時に、人を騙すなんてあるわけないじゃんっていう風に思うから、人を疑わないんですよね。
つまり相手のことを偽善だとかずるいとか、なんかそういう風にすぐ受け取る人間は、その人の心の中にそういった考え方とか感情がすごく強くあるんですね。
それを他人の行動に当てはめてるから、そのように見えてるだけっていうことが多いわけです。
実際にやるやらないは別としても、そんな心の中に疑う気持ちとか悪く思う気持ち、人を騙そうとする気持ち、そういったものがたくさんあって、なおかつそれを他人に押し付けてくるような浅ましい人間を相手にする必要がないってことです。
役に立っているのはどちらか
そして3つめの理由としては、仮に偽善であっても、やられた側の気持ちで考えてみたら、それはしてもらった方がいいんですよ。
例えば、砂漠にいて、もう水がなくて喉がカラカラで死にそうになっているとします。
そういうときに二人の人がやってきて、 一人は物凄い偽善の心で水をやろうと言ってくれた。
もう一人は、物凄く清らかな心で今あなたに水をやるのは偽善だからあげないと言った。
喉がカラカラ側にしてみれば、どっちの方がありがたくて助かるかって話ですよね。
気持ちなんか大して重要じゃないんですよ。何を行動したかがやっぱ大事なんですよね。
だったらやはり水をくれる人が正しいわけじゃないですか。
だからそういう意味で、自分の行動によって誰かが助かるのであれば、それが偽善であるかそうでないかは一切関係ないんですね。ただやればいいっていう話なんです。
さらに言えば、私は偽善はしないとか、私は正しいと思ってることをやってるから正しいんだ、それを人に押し付けてもいいんだって言うのであれば、そういうことを言う人に対して、善意の押し付けならいくらでもしてもいいってことになりますよね。
その人が例えば体がものすごいマッチョじゃなかったら、体を鍛えることが世界一正しいことなんだから、今あんたがマッチョじゃないのは努力を怠っているからだ、怠惰だって責め立ててもいいっていうことと一緒ですよね。
他人の考えを押し付けんなって話じゃないですか。
人が善行を積んでいるところにやってきて偽善だっていう人間と一緒なわけですよ。
世の中には聞く必要もないこともある
正しさというのは、人それぞれの中にあって、自分はそれを正しいと思うのは間違いではないんですけど、他人に押し付けるものではないんですよね。
そして他人に押し付けられるものでも本来ないんですよね。
こういった考え方もあると思いますよ、もしこの考え方があなたを幸せにするのであれば、「受け取ってくれてもいいですよ」ぐらいの距離感がいいと思うんですよ。
私もこういう考え方がいいですよみたいなことをずっとブログでお話してるわけですけど、これも押し付けたいわけじゃなくて、こういった考え方を受け入れたら楽になる人、幸せになる人がいらっしゃるから、「良かったら取り入れてみてね」ぐらいの話なんですよね。
そういう風に変な他人からの押し付けというのは聞く必要はないんですけど、優しい人はみんなの意見を聞かなきゃいけないっていう風に思ってるんですよ。
でも例えば、言葉には主語と述語があったり、問題には問いと答えがあるように、本筋は一つのものから始まって、一つのものから終わるんですよね。
行動というのもそうで、一つの目標があって、その目標を達成したか、しなかったっていう風に終わるわけですよ。
つまり自分がやろうと思ってることにも話の始まりと終わりがあって、それを自分はやればいいんですよね。
他人がこう思ってるとか、他人がどうこう言ってきたっていうのはまた別の筋のストーリーなわけですよ。
本筋とは関係ない別のお話なんですよね。
それをまぜこぜにしてしまうと、例えば1つの主語で述語が3つあったりとか、もしくは主語が3つあって述語は1つみたいなわけの分からない形の話になって、何が何やら分からくなるわけです。
つまり自分の行動とかにおいても、「このためにこれをする」という一つの本筋があって、本筋と関係ない事はまた別のお話なんですね。
別のお話を全部考慮しなきゃいけないなんてことは何もない、聞く必要のないこともいっぱいあるっていうことなんですよ。
でも人の意見は聞くべきだとか、もっと良くなれるかもと思って何でもかんでも、それこそゴミとかそういったものまで受け取ってしまうのは間違ってるわけです。
大切なことは受け取ったらいいけど、いちいち自分の足を引っ張ろうとしてる人の話まで受け取ってたら何もできないから、受け取らなくていいんですよ。
今日お話したのは、人にあんたがやってることは偽善だみたいな感じで、人に批判されようとも、あなたはあなたがやるべきだと思ってること、やりたいと思っていることをやるべきである3つの理由をお話しました。
だからと言って何でも好きなことをしていいとか、そういうことを言ってるわけじゃないのは分かってると思います。
なかなか世の中には自分で完全に正しいと信じ込んでやれることはないと思うんですよ。
やるべきだけど迷いながら人は日々行動してますよね。ただその迷いにつけ込んで、人の足を引っ張ろうとしてる人間がたくさんいるんですね。
そういった人に自分の大切なリソースを奪われないように何より自分が正しいと思うことをちゃんと貫けるようになったらいいなっていうお話です。
では今回は以上となります。ありがとうございました。
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