どうもこんにちは G です。
今回は、10倍高い寿司を食うかという話をしたいと思います。
目次
不幸な人の特徴は「何も考えていない」
回転寿司と高級寿司
今「お寿司」というと、回転寿司とかがお手頃じゃないですか。
でもちゃんとした店、これもピンキリですけど、いい店に行くと一人1万円から、すごくいい店に行ったら一人4万円からとか、そんな感じになっちゃうんですよ。
回転寿司で、まあしっかり食べても、一人2000円ぐらいのもんですよね。でもちょっと高級で美味しい所に行くと、一人2万円とか平気でしますよね。
そうすると、10倍の値段の差があるわけですよ。
で、その10倍高い値段を出してでも、その2万円の寿司を食う価値があるかないかっていうのを、結構インターネット上とか掲示板とかで議論されてることがあるんですよ。
回転寿司で充分派 VS. 高級寿司は偉い派
それを食う必要がないっていう人は、それはもう高いだけで、そんな価値はないと。
回転寿司だって充分美味しいんだから、そんなもんは食う必要がない。あんなのは金持ちの道楽だって言うんですね。
そういう高いものを食べてるぜって言ってる人たちは、「いやいや、お前たちは本当の味を知らないんだよ。哀れだなぁ」みたいな感じで、高いものを食べて何が悪いみたいな感じで平行線なんですよね。
別にそれに結論出すわけじゃないし、それはどちらの意見も正しいと思うんですよ。
なぜ食べるのかを考える
ただちゃんと自分の中の意見として、食べる食べないっていうのがあるならいいんですけど、例えば食べたいのに食べられないから、
酸っぱい葡萄という話になって、あんなものはいらないって言ってたら、それはそれで惨めじゃないですか。
一方で、本当に味も分からないくせに「高いんだから」って食べてたら、それも哀れですよね、
だからきちんと「なぜそれを食べるのか」とか、食べることに意味があるのかを考えて、その上で食べたいなら食べればいいし、興味がないなら食べなくていいっていう話だと思うんですよね。
そこをちょっと今日は解きほぐしていきたいと思います。
幸せを感じるには?
10倍高い寿司は10倍美味しくはない
そもそも「10倍高い寿司」というのは、実際10倍うまいかって言うとそうではないんですよね。
特に回転寿司なんかは、回転寿司の企業が大企業ですから、すごい企業努力して、世界中から良いものを揃えてきてますよね。
だから充分うまいし、メニューにもバリエーションもあるし、何よりお手軽お気軽だし文句の付けどころはないと思うんですよ。
その10倍高い寿司屋というのは、実際ちゃんとしたいいところに行くと、本気でうまいですよね。
なんか「回転寿司で食ってたのは寿司ではなかった」って思ってしまうぐらい、うまいところはやっぱりあります。
だからといって、そうそう行けるもんでもないじゃないですか。
しかもしょっちゅう行ってたら、それってありがたみも何も薄れてしまって、またつまらない話だと思うんですよね。
でも相当うまいって言っても、やっぱり10倍うまいわけではないと。
「高いもの」は市場の原理
世の中で高価なもの、高級なものっていっぱいありますけど、それは単純に市場の原理的に高い値札がついているだけですよね。
それは希少価値が高いとか、手間暇がかかっているとか、手間暇がかかっているから希少であるって言う風なことも含めて言えば、概ね数が少ない希少なものだから、値段が上がってるだけなんですよ。
だって「ものすごく手間暇かかってます」っていうのでも、ものすごく手間暇をかける人が今の100倍いたら多分値崩れしてると思うんですよ。
ものすごく美味しいものであったとしても、例えば大トロとかが、今の100倍取れたら、そんなものは昔のように捨てるようなものになってるかもしれないですよね。
だからそれは市場の原理でしかなくて「高いから旨い」っていうわけでもないし、「高いから素晴らしい」っていうわけでも当然ないですよね。
安くてもうまいものもいっぱいあるし。
誰と食べるか
さらに言えば誰と食べるかとか、どういうシチュエーションで食べるかっていうのも凄い大事じゃないですか。
仲の良い友達とか気の合う相手と楽しくワイワイ言いながら食べれば、高い安い関係なくものすごくそれは美味しいし思い出に残りますけど、
それこそ嫌な上司に連れて行かれて説教がてら食べさせてもらったら行きたくないレベルですよね。
自分が楽しめるかどうか
だからそういう風に言えば、市場の原理で値段が上がってるだけで、そこが絶対の基準であるとか絶対の正義であるって思う必要も全くないし、
自分が楽しめるかどうかが、正しさの基準がある場所だと思うんですよね。
だからどっちが正解かっていうのはその人の価値観によるもの、それは自由に答えを出せばいいんだけれど、少なくともその人が幸せに感じることを選べばいいんじゃないかなと思うんですよ。
本当の幸せとは
だから「この安い寿司で満足なんだ」って言いながら、内心は「高いの食べたいんだけどなー」って思ってたら、きっとそれは幸せではないんですよね。
だったら毎度食う必要はないので、努力してでも、お金を貯めてでも高い寿司も食ったほうがいいんですよ。
高い寿司食べてる人は本当にうまいと思って本当にお金が余裕があって食べてりゃそれはそれでいいんですけど、
そうじゃなくてちょっとでも見栄が入ってたりとか、もっと安くていいのになと思ってるんだったらそんなところを無理する必要ないと思うんですよね。
自分が本当に幸せを感じるところを追求すること、これが本当の正解じゃないのかなと思うんですよ。
不幸な人生を送りたくないなら「価値観」とうまく付き合う
全ては自己満足
大体、その何がいいかっていうのは、結局自分が満足するかどうかって一番大事で、これは自己満足の世界じゃないですか。
自己満足の世界であれば何でもいいんですよね。
自分が満足できれば、ここに値段の話はいらないんですよ。
なのに高いものを食べたから満足であるとか、安いものを食べているから自分は哀れであるって思ってしまったら、そう思っている人の方が哀れというか、自己満足できてないわけですよね。
だからそういう考え方は選んじゃいけないし、そう思ってしまうならそれは変えなきゃいけないことなんですよね。
価値観は変えてもいい
人は人、自分は自分、人それぞれ価値観が大事ですよっていうことは、みんなもある程度分かってると思うんですよ。
価値観は人それぞれ違うから自分の価値観を大事にしなさい、これもみんな分かってると思うんですけど、そこにもう一つ乗せて考えて欲しいのが「満足感」なんですね。
価値観がこうだから、ああだからって、自分の行動基準とか選択を選んでしまうと、結局それが価値観であっても、それで自分自身が満足できてなかったり幸せでなかったりすると、不幸になるわけですよね。
だから価値観を大事にするのは本当に大事だけど、それで満足できてなかったら、そんな価値観は大事にしちゃいけないんですよね。
だから自分の価値観にとらわれすぎるのも不幸なことなんですよ。
価値観なんかどんどんアップデートしていって、変えていったらいい話なんですよね。
自分が幸せになる方向に価値観は変えたらいいんですよ。
「価値観 = 自分自身」ではない
だけどなんか「価値観 = 自分自身」みたいな自分のアイデンティティみたいに思い込んでしまうと、価値観を変えちゃいけないとか、価値観に反してしまうとストレスみたいに捉えがちなんですよね。
でもそのせいで価値観は守られているけれど、内心どこか不満がある、幸せではないって思ってたら、そんな人生は寂しいんですよ。
だから価値観を大事にする。これはもちろん大事です。
でも価値観はどんどん変わってもいい。
どんどん進化すればいいもので、それより大事なことは自分自身が幸福を感じれるかどうか。満足感を感じているかどうか。
こっちの方に目を向けて欲しいんですよね。
自分が満足なら、それが正しい
自分自身が幸福感を感じている、満足感を感じているのであれば、その生き方は正しいんですよ。
何を食べていようが、お金があろうがなかろうが正しいんですよ。
だけどそうじゃなかったら、結局それは酸っぱい葡萄みたいなもので、手に入らないものを否定しているだけになるんですよね。
そんなのは価値観でもなんでもなくて、もう惨めな負け惜しみじゃないですか。
だからそういう生き方はすると、不幸だと思います。
だから価値観はぶっちゃけこだわらなくていいと。
それよりも自分自身の満足感を見つめて、自分が何をすべきかっていうの考えて欲しいなっていうのが、今日の話のまとめです。
それでは今回は以上となります。ありがとうございました。
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